昭和48年09月23日 特別奉修員



  (途中から)
 スイカをこう、七夕さんの時には配る時の様に、あんな大きくあの、切ってある処を頂いて、ああ是はスイカだなと思いよったら、それが段々かぼちゃを切ったところを頂いた。かぼちゃになって行くところでスイカが。ですから修行の焦点というのを。スイカは修行とこう頂かにゃならん。だからその修行の焦点をかぼちゃになる事に、もう極まったというのが今朝の御理解じゃなかろうかと思いますね、簡単にいうなら。
 神様へ、神は向こう倍力の徳を授けると仰るが、だからそこんところに思いを、ほんなら五十も百も千もという様に、愈々強いもので、その事にもう極まったんだということですね。もうかぼちゃということは、勿論馬鹿と阿呆ということでしょうし、あのということは、なら愈々大きな心ということですもんね。今朝、あの昨夜頂きました様に、頂いた事ですけれども。
 あの結局相撲取りさんが、お腹が大きゅうなる事が、先ず先に大きゅうなって、あの、ほかん所の全てが大きくなるという様にですね。私共の腹が大きくなる。馬鹿と阿呆ということは大きくなる事だと、お腹が。腹が大きゅうなる事だから、全ても又大きゅうなって来るおかげを頂く訳ですから。ならそれに、それに取り組む姿勢というか、取り組むその意欲というものが、どの程度にあるかということになる訳ですね。
 だから、もういよいよあの、その意欲が例えば強くなればなる程、もう全然問題が問題にならない程しになるだろうと思いますね。少しばっかり思いよるけんで、もう腹が立つ。それでも、やっぱり先程佐田さんのお届けじゃなかばってん、もう、私は心ば切り替えるとは、もうおそらくに、あの合楽で一番じゃろうと思うちいうてからばあちゃんと話したという。
 それが、本当にいえれるくらいにですね、だから顔色に出す前に、もうここでその腹の立つ時のカッとするけどもその顔に出る前に、次のあれがこの教えが閃いて来ると、こういうわけなんですね。と言う様にその銘々がです本当に合楽で一番じゃろうと言う事は、もう日本で一番ちゅう事と同じ事ですよ。位に自分の心の切り替えがね、素晴らしゅう出来るということ。それなんですやっぱスイカがかぼちゃになるということはですね。
   どうぞ。